2007年5月
阿波仲麻呂と鑑真を偲ぶ旅の最終日。
ホテルをチェックアウトする前に、長江を何とか見られぬものかと思案した。このあたりの長江は、西から東に流れている。遣唐使船団は、黄泗浦の入り江から東に向けて長江を下ったはずである。公安所長の好意で目にした長江は、霧に包まれていたが、船団が通過した場所より遥か北側にある。入り江の埋まった東の端ならば、かつて船団が通過した長江と重なり合う。古地図にある常熟県福山という場所が、土砂で埋まった東の端に位置しており、福山塘という運河が長江に流入している地点は、大河が海のように広がっている。このあたりの長江なら、きっと彼らも目にしたに違いない。
さっそくタクシーをつかまえ、福山塘が長江に流入するところまで行ってくれるよう頼んだ。常熟市内とはいえ、市街地からは遥か遠く離れた北の果てである。小一時間ほど走って、工業団地のようなところに入り、運河沿いの道路に出た。この運河が福山塘なのだという。
真っ直ぐに伸びた運河沿いの道を走り続けると、やがて舗装がとだえ通行止めの表示があって、これ以上先に進めない。
人のよさそうな運転手は、しきりと「不好意思(プーハオイースー:申しわけない)」を繰り返す。とても残念だったが仕方がない。この近くで、長江の見られるところに行ってくれるよう頼んだ。運転手は、ここよりかなり手前にある開発区に来たことがあって、長江が見られる場所を知っているという。
こうして、運転手のいう開発区に後戻りし、長江の堤防に辿り着いた。葦の茂った岸辺の先は、見渡す限りの長江だ。さすがに広い。上流には平べったい島、下流には無数の船が浮かんでいる。
土砂ですっかり変わり果てた黄泗浦を思うと、今立っているこのあたりも、かつては水面だったかも知れない。遣唐使船は向かいの島の沖合い、それとも、岸沿いの手前を通ったのだろうか?
いや、向かいの島もそのころは無かったのかも知れない・・・。他愛もないことをあれこれと心に浮かべながら、1250年前の出来事に思いを馳せた。
唐の時代、中国人の海外渡航は厳しく制限されていた。鑑真の渡日が思うように進捗しなかった最大の理由も、ここにある。そんななかで渡日工作を続けられたのは、鑑真の固い意志もさることながら、朝廷の高官であった阿部仲麻呂の介在もなかったとはいえまい。
現に、戒律伝授のための渡日について、第9回遣唐大使、藤原清河が揚州に鑑真を訪ね、帰還する遣唐使船で内密に渡日するよう懇請したとき、阿部仲麻呂も同席している。
日本に無事到着した鑑真は、立派に戒律を伝授し、唐招提寺を建立して76歳で入寂した。同じ船団で日本に向かった阿部仲麻呂は、帰国を果たすことができず、再び唐の官職に復帰して従2品まで登りつめ、72歳でこの世を去った。
同じ時代を生き、ともに異国でその生涯を閉じた中国人と日本人の、何とも皮肉な運命の分かれ道は、眼前の長江を通り過ぎてわずか数日後、琉球の大海原に待ち受けていたのである。
(終わり)
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