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(隋の煬帝と揚州の柳-2/3)

               
                           

私が揚州に来たかった理由はもうひとつある。

隋の煬帝である。

聖徳太子が二度目の遣隋使を派遣したとき、
「日出る処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや」
という国書を出した相手が煬帝だと伝えられている。

  痩西湖2
         

清の康煕帝の時代に書かれた隋唐演義という書物がある。
このなかで、煬帝が揚州の地図を広げ、かつて住んでいたその地を懐かしむ場面が出てくる。隋の都洛陽から揚州へは、馬に引かれて行くにはあまりに遠すぎる。女官たちがそれでは水路で行けばと尋ねると、「長江は東西に流れておってな。南北の水運は不便なのだ。運河でもつくらぬことにはな」 (注)と煬帝はひとり呟く。

注)「」の部分は、徳間書店「隋唐演義」田中芳樹編訳からそのまま引用した。以下に出てくる「」の部分も同様である。

         

それからしばらくして臣下より、
「黄河の南から長江の北へと伸びる一条の古い運河がございます。800年前、大将王離が建設したものでございます。もう古い話しで、現在は塞がっていて不通ですが、これを掘りなおせばよろしいかと存じます」という献策があった。

煬帝はその臣下の案を自分の考え及ばぬことと褒め称え、ただちに勅命を下して、16才以上50才以下の男女を運河開削のために徴発した。
「女まで徴発するとは、秦の始皇帝すらやらなかった暴挙である」と演義はコメントしている。

こうして610年に南北の大運河が開通し、煬帝は洛陽から揚州まで、前代未聞の行幸を敢行する。

  揚州の街2
 

煬帝と皇后、それにあまたの寵妃たちが、竜船と呼ばれる大船に乗り込み、数百隻の小竜船がその前後を挟んで進む。そのほかに、宦官、雑役、飲食係りの雑船数千隻が運河に浮かび、文武百官が兵馬を率いて両岸を前進する。
ここまでの話しだけでも、まさかと首を傾げたくなるのだが、この演義の真骨頂はこれからだ。

           
  揚州の運河 行幸の途中で風が凪いでしまうと竜船の帆は降ろされ、あらかじめこのような時のために準備されていた羊と、殿脚女と呼ばれる若い女たちが船から下りて、運河の両岸から綱で竜船を牽き始める。

季節はすでに春も終るころで、殿脚女たちは暑さで汗にまみれ、綱を牽く足取りも重くなってゆく。煬帝はこれを見るに忍びず、臣下に妙案はないかと下問した。
                       

やがて、両岸に柳を植えれば木陰で殿脚女を陽ざしから守ることができるし、柳の根が張れば堤の基礎も固まる、と奏上する学士がいた。

「それは妙計じゃ。だが堤は長いぞ。何万本も植えられるかな?」
煬帝は訝る。
学士は、柳一本を植えた者には絹一疋を与えると勅を下せば民は夜を日に継いで植えるでしょう、と自信をもって答える。こうして勅が下りると、たちまち住民たちが連夜柳を植えにやって来て、2‐3日のうちに千里の道が柳で覆われた。

                         
 

隋唐演義は、煬帝の揚州への行幸をこのように描いている。

初版が1675年ということだから、当時でさえ煬帝はすでに千年以上前の人である。
大昔の出来事で、尚且つ演義という体裁をとっているから、史実と異なる部分も少なくないだろう。

(続く)

痩西湖3
                           
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