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南京旅行ガイド・南京大虐殺記念館

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南京を語るとき、やはりこの建物に触れないわけにはゆきません。

記念館は、市の中心からそう遠くない所にあり、週末には多くの見学者で賑わいます。完成は1985年で、玄関の「侵華日軍南京大屠殺遇難

同胞記念館」の文字は、鄧小平の手になるものです(中国語の屠殺は大量の虐殺を意味します)。

2万5千平方メートルの広い敷地内は、玉砂利とコンクリートのオブジェが灰色のイメージを演出し、「万人坑」と呼ばれる戦死者の発掘跡に建てられた展示館では、土中から露出した人骨がガラス越しに見られるようになっています。

目にしたくないものを見せられているという異様な雰囲気に、強い圧迫を感じるのは、私だけではないでしょう。

(注)記念館のリニューアルが完了し、再オープンされました(新館の情報は、こちらから)。

虐殺記念館1

(虐殺記念館の門標)

虐殺記念館2

(この建物に人骨が展示されています)

明代功臣の墓

明代の墓1

(徐達の墓)

明代の墓2

(李文忠の墓)

世界遺産明孝陵(みんこうりょう)のある紫金山(しきんざん)の西側には、明の太祖朱元璋(しゅげんしょう)の功臣として名高い徐達(じょたつ)と李文忠(りぶんちゅう)の墓が、開発の進んだ街の真ん中に、ひっそりと残されています。

徐達は安徽省の人で、早くから朱元璋に従い、地方の軍閥や元との戦いに活躍、魏国公に封じられ、明開国第一の功臣と伝えられています。神道に建てられた石碑は、功臣の陵のなかでは最大のものです。李文忠は江蘇省の人で朱元璋の姉の子。のちに朱元璋の養子となって朱姓を名乗り、勇猛果敢、大いに戦果を挙げて、曹国公に封じられました。

栖霞寺(せいかじ)

南京の西、20キロほどの郊外に、栖霞山(せいかざん)があります。楓の木が多く、秋の紅葉が有名な観光地です。

この山の麓には六朝の時代に創建された、南京では最大の栖霞寺があります。現在の建物は1908年に再建されたものですが、境内には舎利塔や千仏岩などが残されています。

栖霞寺1

(栖霞寺の舎利塔)

栖霞寺2

(舎利塔の彫刻)

とくに舎利塔は、隋の時代に創建、南唐の時代に再建されたもので、長江以南ではもっとも古い石塔のひとつです。江南では珍しい密櫓式で、 釈迦成道の八相図が刻まれ、文化財としての価値も高いと評価されているだけに、なかなか見応えがあります。また、鑑真一行が渡日に失敗して海南島に流されたとき、陸路揚州(ようしゅう)に戻る途上で、弟子が住職をしていたこの寺に立ち寄ったことでも知られています。

美齢宮(びれいきゅう)

紫金山の明孝陵のそばに、美齢宮があります。 1931年に建設されましたが、日中戦争終了後、国民党政府が重慶(じゅうけい)から南京に戻ったため、総統官邸として修復されました。その後、蒋介石と宋美齢(そうびれい)の住居として使用され、2階には宋美齢の寝室や、彼女の使った家具などがそのまま残されています。

美齢宮1

(美齢宮)

美齢宮2

(美齢宮2階の宋美齢の部屋)

蒋介石が台湾に亡命したあと、宋美齢の方が有名になったこともあり、この建物は美齢宮と呼ばれるようになりました。

石頭城(せきとうじょう)公園

石頭城1

(城壁の上から市内を望む)

石頭城2

(城壁の左側、縦の楕円に見える部分が鬼臉)

石頭城公園は南京市を取り囲む城壁の南西に位置し、外敵からの侵入に備える要衝として知られてきました。

三国志の時代、呉の孫権がこの崖を利用して城壁を築いたとされ、諸葛孔明が「石頭に虎がうずくまる」と評したことから、石頭城が南京の別称となりました。

その後、石頭城は要塞としての価値がなくなり放置されてきましたが、1985年から始まった秦淮河(しんわいが)環境整備計画の一環として、7万平方メートルに及ぶ一帯の住宅や工場が移転され、石頭城公園として市民に開放されています。

自然の崖を利用しているだけに、20メートルを越える城壁の高さに圧倒されます。風化して岩の露出した部分が鬼の顔に似ているところから「鬼臉城(きけんじょう)」の異名もあり、太古の歴史と新しい街並みが同居した、実に不思議な空間です。

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